【〈いま〉を生きる瑞々しさ、伝統と可能性の昇華

巨匠オピッツと新田&ACOの飛翔】

                     

                       山野雄大

 遙かな年月を超えて、ベートーヴェンが胸の内に燃やした〈創造の炎〉を——その熱さを、まざまざと蘇らせる。その挑戦にふさわしい巨匠を迎える、またとない機会が名古屋にやってくる。

 現代ピアノ界に凜と立つマエストロ、ゲルハルト・オピッツ。お会いするといつも、もの柔らかな笑顔と語りくちで迎えてくださるこの名匠はしかし、優しいだけの人ではない。お話しているうちに、こちらの背筋も自然にすっと伸びてくるような‥‥質実剛健な演奏がその人柄に もあらわれている、そんなピアニストだ。

 穏やかな謙虚さにも、強い自負が融け込んでいる、そのたたずまい。オピッツはつねづね、 自分が受け継いできたドイツ伝統のピアニズムについて、静かに、しかしはっきりと語ってきた。ベートーヴェン自身に学んだ弟子たちと、その愛弟子たる歴史的な名ピアニストたちの系 譜‥‥チェルニー、リスト、ビューロー、ケンプ、そして、オピッツ。‥‥今年で生誕250年という 節目を迎えたベートーヴェンから、直系となるこの師弟の系譜を、誰よりも強く自覚してきたのが、他ならぬマエストロ・オピッツだ。

 彼は語った。「伝えられてきた〈作曲家の魂〉を感じながら、偉大な先人たちを模倣することなく、伝承を継承することが私にとっての大切な課題でした」と。——そう。〈受け継ぐ〉ということは、ただ〈模倣する〉ことではないのだ。ベートーヴェンの楽譜に宿る精神をくみとり、いまを生きる〈音楽〉へ蘇らせる‥‥そのとき、オピッツが師である名匠ケンプから教えられた、楽 譜に眠る〈読みかたの可能性〉が生きる。

 「ダイヤモンドも見る側によって様々な輝きがあるように、真実はひとつではなく、可能性は多様なのです」‥‥そう語ったオピッツが鍵盤に表現する〈答え〉は、確かな伝統を糧として、オ ピッツ自身の豊かな経験と深い思索で磨かれ続けてきたものだ。〈可能性〉の多彩を、揺るがぬ視線ではっきりと知るからこその、自負。

 1977年のデビュー以来、ベートーヴェンのピアノ協奏曲・全 5曲の連続演奏会は、世界で 数十回にわたって重ねてきたというオピッツ。大の親日家でもある彼が、覇気あふれる若き楽 団、愛知室内オーケストラとの全曲演奏会に臨んでくれるのは、私たち聴衆にとってはもちろ ん、楽団メンバーにとっても代え難い貴重な経験となるはずだ。

 2015年以来、このオーケストラを確かに大きく成長させてきた常任指揮者・新田ユリもまた、 音楽にこの上なく誠実に向き合い続けてきたマエストラだ。優しさとしなやかさの中にぐっと 燃える芯をもって、この楽団から、凜と誠実な(そして強い歌心あふれる!)美しい演奏を引き だし続けてきた新田。筆者はそのリハーサルを何度も見学させていただくうちに、楽団が新しい挑戦を通して重ねてゆく経験から、メンバーの内なる可能性を少しずつ確かに引き出して、 同じ方向へ眼差しを向け、アンサンブルの生命力と色彩とを我がものとしてゆく過程——この オーケストラのサウンドを、確かにしてゆくのを、目の当たりにした。北欧音楽をはじめ、独自 のレパートリーを広げるその強みを通して、楽団の個性を固めながら、確かな〈可能性〉を拓いてきた。

 だからこそ、マエストラ新田は任期の最後に、ベートーヴェンを重ねて取り上げてきたのだと思う。全世界のオーケストラにとって、ベートーヴェンという作曲家は、始まりにして終着点 でもある、大切なレパートリー。ここを固めてこそ、さらなる飛躍へ繫がる。

 偉大なピアニストとのベートーヴェン共演は、私たち聴き手も誇るべき初代常任指揮者との集大成でもあると同時に、大きなはじまりだ。オーケストラがベートーヴェンの〈いま〉を生きて羽ばたく、瑞々しい瞬間を体感する絶好の機会。必ず、忘れがたい時間となるだろう。

山野雄大  

ライター[音楽・舞踊評論]。『レコード芸術』『バンドジャーナル』『音楽の友』など雑誌・新聞への寄稿をはじめ、全国のオ ーケストラやバレエ公演での解説、CDライナーノート・企画構成など多数。 第一生命ホールで開催されているコンサートシリーズ《雄大と行く昼の音楽さんぽ》司会・構成を担当。